僕が「間違えること」は、死を意味する

2017年は、1年の内、70%は家に引きこもっていました。

 

僕は、とても臆病者で、完璧主義者で、繊細。

 

自分が納得する答えを出したいと思って、色々グジュグジュ考えて考えて、それでも答えを出せない。いや、出せないのではなく、出さないのだ。本当のところは、自分で答えを出す腹なんか決めていなくて、誰かに答えを求めている。かといって、誰かに答えを与えられると、それが腹落ちしないと、またグジュグジュ考える。

やっとの事で自分が納得する答えを出した時、すでにそれ相応の時間が経過している。

そして、自分の中では超完成度の高い繊細なガラス細工が完成している。それでもなお、そのガラス細工が、本当に正しいのか?間違っているんじゃないのか?もっと美しくなるんじゃないか?と疑心暗鬼になって、さらにツンツンしながら、その強度の検証と美しさの磨きをかけるために、時間を過ごす。

そのガラス細工もやっとのことで、お披露目の時を迎える。恐る恐るそれを世に披露してみる。すると、社会からはデリカシーなく、瞬く間にパリーンって破壊される。そして、傷つく。3日間、ふて寝する。起きて、また殻に篭って、グジュグジュ考え出す。

 

僕の思考パターンは、そんな複雑なループ構造になっている。

 

この思考パターンを止めるためには

  1. 「自分の腹落ちする答えなんか求めず、誰かの正解に争わず、素直に従うか」
  2. 「正解なんてないんだと割り切って発信・行動して、ガラス細工が防弾ガラス並みの強度の内に、一緒に叩いてもらう」

かのどちらか。

 

1.は、なんかイヤ。

じゃあ、2.をやればいいんだけど、それは所詮、”頭でわかっている”こと。

 

深層心理では

  • 「僕は、常に正しくなければならない。間違ってはならない。」
  • 「僕は、常に本質を、見抜いて、ドンピシャで言い当てて、相手をギャフンと言わせなければならない。」
  • 「僕は、常に論理的で、正しくなければならない。」

…と、僕の中では、普段、無自覚なエゴが深層心理で渦巻いている。

 

周りからすれば、僕からは、そんな頭脳を持っている人に見えていないだろう。それは頭ではわかっている。でも、僕の心は、その事実が、受け入れられない。

それでもなお、僕の中には、「僕は、常に正しくなければ、死に値する」という、心理療法理論「交流分析」でいう、「人生の脚本」みたいなものが根強くある。僕が、間違ったことをいうことは、僕の深層心理にとっては、生死を彷徨う死活問題なのである。

だから、熟考に熟考を重ねて、その末にやっとでてきたものを、更に熟考する。そして、熟考して、熟し過ぎて、腐り始めた頃、世にお披露目する… しかも、自身なさげに、恐る恐る、ドキドキしながら。それをボロボロにされると、深く傷つく。しまいには、他の人の借り物の正解を使って、「だって、あの人が言ったことだから」と責任を誰かに押し付けて、「自分が間違えていないことにして、自分が生き延びるための良い口実」を捏造する。

だって、”間違ったこと”を言ったら、僕は死なないといけない。

自分の頭脳、考え、能力、才能が、世に出て、自分の無能ぶり、自分の失態が、世に晒されることが怖かった。

だからめちゃくちゃ慎重になる。

2017年は、そんな家に引きこもって、社会に晒されることから距離を置いて、隠居生活みたいなことをしていた。

 

こんなコラムを書いていること自体も、この思考パターン。

2017年、熟考に熟考を重ねて理解にたどり着いた、自分の思考パターンを、冷静に言い当てて、「どうだ!すごいだろ?」とでも、思っているのだろうか?

 

でも、この思考パターン… そろそろ疲れてきた。

僕が、これから進む道を、豊かにしない。

 

だから、それを手放そうと思った2017年でした。